お墓参りの心構えについて雑感

お墓参りをする時って、みなさんはどんな事を思いますでしょうか?

私は、現在の自分が置かれている状況の報告、そして前へ進んでいく事の決意とここまで大した傷病も無く過ごして来られた事への感謝を、ご先祖に伝えるという形を取りつつ手を合わせています。

もちろん、私はそんなに信心深い訳でも無く、普通によくある檀家制度の下、菩提寺にある先祖の墓にお参りするだけ、しかも車で5分程度の距離にあるというのに、盆と正月だけの年2回しか行かないので、相当な面倒くさがり屋なのだと自分で思っています。

しかしこの盆と正月、年に2回のお墓参りがバカに出来ないご利益があるのです。

と言いますか、このお墓参りが自分にとってとても大切な時間となっているのです。

1つ目の理由は、子供の成長を感謝する事で、自分が連綿とつづく命のリレーという壮大な生命の物語の一役を確実に担っているのだという思いです。

自分も含めて人は、時に自分の力を過信し過ぎたり1人で生きているという頑なな強い思いを抱いたりしがちだと思います。しかし、両親の、その両親、そのまた両親・・・と倍々に増えていく先祖の誰1人が掛けても、今の自分という存在は生まれてこなかったのだと確認する事ができます。

もっとも、自分の事が大嫌いな時期などもありましたので、そういった命のリレーに何の意味があるのかと、逆になぜせっかく生まれたのに自分はこんな容姿なのだ、こんな才能なのだ、こんな・・・と卑下する時期も無かったとは言いません。しかし、この目もくらむようなわずかな可能性を掴んで生を受けたこの自分という身は、何かやる事があるのではないか?意味を見出せるのではないか?という思いが強くなります。

お墓参りをし、思い出が無いどころか顔すら分からないご先祖から続く命の事を考えると、そう思ってしまうのです。

2つ目の理由は、自分自身に嘘が付けない貴重な時間である、という事です。

普段、社会と接し続けている私たちは、大なり小なり自分に嘘をつく瞬間があるのではないかと思います。

本当は帰りたいのに、帰りますと言えない。断りたい飲み会に行かなければいけない。好きでも無い人にお世辞を言い、逆に好感を持っている人と対立する事になったり。

そういう小さな嘘ももちろんですが、大きなところでは、自分の生き方そのものに嘘をついている事に気付かされる時もあります。

一生懸命仕事をしていると思っていても、手を合わせ、目をつぶり、先祖に向かって、私は今、一生懸命に仕事に打ち込んでいます、と胸を張って宣言できるでしょうか?家庭の絆を大切にする、と口では言っていながら、妻の助けになっているだろうか、子供らに良い背中を見せてあげられているだろうか?表に向かって発信している自分自身の態度と言葉を、本当に心の底から一点の曇りも無く思えているか?やはりご先祖と向き合っているあの瞬間、しかもタイミングの良い事に盆と正月の半年に1回、強制的に振り返る事で、自分の乱れた心をリセットし、新たに謙虚な気持ちで仕事に家庭に、そして社会に向き合う事ができるのです。

これら2つの大切な事は、私自身の心をキチンと冷静に保つための年に2回のルーチンと言っても過言ではなく、非常に役に立っています。

どちらも自分の内面と深く深く向かい合う時間であり、何かの願い事を(特に社会生活での実利を求めるために願う)神社参拝とはまた違った思いが有るのがはっきりとした事実です。

特に私は自営業をしているため、こういった内面と向かいあう時間は非常に貴重です。

というのも、経営者をしているとなかなか自分に向かって本音で行ってくれる人というのはいないものですし、いたとしても日々の忙しさからなかなか会う事もできません。家族という存在は非常にありがたいのですが、身近な存在であり過ぎるがゆえになかなか本音で向き合う事も難しいです。

そういう一見軌道修正のしにくい自営業という立場において、お墓参りは先祖の視点で自分自身の今を見つめられる時間になります。