お墓参りをIT風に


「墓参りをする意味」をIT風に説明するたとえ話が秀逸と話題に!という記事があったので考えてみたいと思います。

https://news.nicovideo.jp/watch/nw5063316

記事によると、亡くなったおじいちゃんはクラウド上に居るのだそうで、もうそこから笑みが出てしまいますね。

確かに、風になって吹き渡っているという歌も流行りました。あの曲はどちらかというと仏教的ではなくシャーマニズムを感じる歌でしたが、それはそれとしても、故人は物理的に存在しているのではなく確かに記憶とイメージの中、脳波という電気信号の中に居ると言ってしまえばまさにピッタリです。

そして、自宅の仏壇はスマートフォンなどの端末で、お墓はサーバーを意味しているのだそうです。
ここまで聞けば何となくお墓参りの意義が見えてきました。

私達は仏壇などの前で手を合わせる事で、気軽に故人と向き合う事ができますが、それはとてもライトな、言ってしまえば日常の行いのひとつにすぎないという事なのでしょう。

そして稀に例えば春や秋のお彼岸、盆や正月の節目にお墓にお参りし、そこまでの気持ちを一気に整理する、いわばサーバーをメンテナンスする、という事なのでしょう。

私の母は70歳を越えましたが、今でも仏壇にお供えする一口のご飯とお味噌汁はこまめに変えていますし、春と秋のお彼岸、お盆、正月にはお墓参りをシッカリと欠かさずしています。

色々と義務感を感じての事だと、実は義務感の方が高い比率を締めているのかもしれないと思う時もありますが、母は母なりに夫の先祖に対して思う所があるのでしょう。子供ながらそういうところは尊敬しています。

しかし、そうして守ってくれているからこそ、気軽に(とは言い切れませんが・・・)お墓に私たちがお参りする事もできるので、これが墓守がいない草が生い茂って墓石も見えない状態だったなら、お墓は縁遠い存在になっていた事でしょうし、その状態のお墓を目の当りにしたら、次回以降マメに行こう!と決意を新たに出来る自信も、正直なかったりする現実もあります。

仏壇がスマートフォンなどの端末、と記事にもありますが、私はふとした時に開いたアルバムや亡き家族を思い出すシチュエーションなんかも、故人への思いという形でクラウドにアクセスするのならば、スマートフォン端末と同じ役割を果たしているのかなと感じています。

その不意の瞬間にアクセスしようとしたクラウドへ繋ぐサーバーが草だらけだったら・・・?亡き家族のイメージと共に荒れた墓地のイメージも浮かんできてしまったら・・・?ちょっと負い目を感じてしまうと私自身は思います。
お墓参りはサーバーを良好な状態に維持し、ふとした瞬間に故人の記憶というクラウドにアクセスするとき、スムーズにかつきれいにイメージできるようにする必要な行動なのかもしれませんね。

もちろん、これは個人の感想であって、誰も強制できる事でもありませんしするつもりもありませんが、大規模霊園で全く墓参に訪れなくて荒れてしまっているお墓が約3%程度は存在するというお話を聞いた事があります。そのお墓は一体どうなってしまうのでしょうか?

お墓参りを面倒くさい、疎ましい、誰が得するのか、と思ってしまう気持ちはけっこう共感してしまう自分がいるのですが、それでも、ふとした時にイメージする故人への気持ちをクリアな状態にするために、これはとりもなおさず自分のために、これからも続けていきたいなと感じました。

もっとも、そうは思っても物理的に行けない理由を抱えていらっしゃる方は大勢いると思いますので、もし、そういった理由でお墓参りを代行されたい方は、お気軽にお問い合わせ下さればと思います。

仏壇はなくとも故人を思い出すきっかけはどこにでもあるのですから、その瞬間はきれいにアクセスしたいですよね。